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2003年10月23日、 国立劇場楽屋食堂にて、稽古前の錦糸さんにお話をうかがいました。 インタビュアーも素人ですので、うまくお話をうかがえましたかどうか。 錦糸さんのお話は関西弁で読んでください。 インタビュアーもつられてときどき関西弁です(笑)。 |
◎文楽にはいったきっかけ・研修所時代の話 ――もうあちこちでお話しになって、またかと思われるかもしれませんが、皆さんがいちばん聞きたいことはやっぱり、「なぜ文楽だったのか」だと思うんですよね。 文楽は一度も見たことがなかったけれど、たまたま国立劇場で研修生募集のポスターを見て、ふと思い立ってはいられたということなんですが。 まあ、そういうことです。ずっとね、ギター弾いてたんですよ。三味線はね、家にあったんで触ったことはあったんです。 で、偶然やったけどポスター見て。なんかいいなあと思って。 ――落語や歌舞伎がお好きだったとうかがっているのですが、だったら文楽でも、大夫のほうではないかと思うのですが。 いや、それはもう最初から大夫は考えていなかったです。楽器をやりたかった。 研修所にはいるときにね、志望を決めるんですよ。で最初の1年間はぜんぶやる。人形も大夫も三味線もね。 ――途中で志望を変えることはあるんですか? そりゃ、むいてないと言われたら変わらなしゃあない。 けどぼくはもう、第一も第二もないですわ。最初っから三味線しかないんで、あかんかったらもうやめなあかんと思ってた。 ――大夫にいこうとはぜんぜん考えていなかった? なんでもいいから文楽やりたいっていうんじゃなかったんです。とにかく三味線を弾きたかった。 ――住大夫師匠が、落語に人材をとられなくてよかったとおっしゃっておられましたが(笑)、落語に入門したいというのはかなり本気だったんですか? ほんき、ほんき。 ツテもね、なくはなかったんですけどね。その人が亡くなったんですよ、ちょうどその頃。そんなこともあってね。 それと、あの世界はいざとなるとやっぱりちょっと、というのは思ってましたけどね。 ――文楽の世界についてはある程度ご存じだったんですか? ううん ぜんぜん。 ――「力さえあればのぼれる世界だから」とどこかで話しておられましたけど、だったらそれははいってからわかったことなんですか? そうですね。 ――はいるときはまだそんなことはぜんぜん知らなかった? うん、そんなこと興味ないもん。 ――とりあえずは、楽器が弾けると思ってはいってみた。で、いざはいってみたらできそうだった? うんそうそう、なんでもやってみないとわかんないですよ。 それにね、一応国立劇場だから、きちんとした形で養成してくれる。そういう心配はなかったからね。 ――きちんとやってさえいれば、デビューまではいけるということですね? まあすっといけばね。 1年目にもう一度試験があるわけ。そこで落ちる人もあるしね。 ――1年目が総合で、2年目が専科なんですね? じゃあ最初の年は、人形も大夫も習ったんですか? 人形、面白いよ。だいたいのことがわかればそれでいいんだけどね。 教えるほうも、おまえらは三味線弾きやからまあ息抜きにやれなんて言うてくれる。ありがたいですよ。 まあちょっとやってみるか、なんてね。 逆に、ちょっとやれそうやったらおまえやれなんて言うて、人形志望の人を刺激するんですわ。そのへんはみんな上手ですよ。だから楽しかったです。 人形ではね。玉男さんとか簑助さんとか、ようきてくれた。 亡くなった玉昇さんはすっごい面白い人やったね。勢いのある人。この人の稽古は楽しかったですね。 浄瑠璃の稽古もね、きっちりやらされるでしょ。下手でもいいからおぼえといたらいい言うて。それはもうお互いさまでね。 でも三味線はね、みんなかわいそうやったわ。そら弾かれへんもん(笑)。 もちろんそれも同じことで、講師が適当にちゃんとしてくれるけど。 でもそういうのはええことやと思う。 研修にはいってすぐに、志望のものだけやればいいかというと、そうじゃない。 一応なんでもやっとくべきやと思う。なんでもね。 やってみたら大変だってのがわかりますからね、 それは、ぼくはいいことやと思うんですわ。 ――錦糸さんはこれからも、いいにせよ悪いにせよ、たぶん一生「元研修生」という肩書がついてまわると思うんですよね。それについてはどうお考えですか。 そんなん関係ない。 いっとき嫌だったけどね、もう研修生卒業してプロなんだからと思ってね。 でもきっかけが研修生だったって、それだけの話ですわ。 襲名のときなんかもね、「研修生研修生」って。そりゃぼくだけですからね。 でも関係ない。なんでもいいんですよ。 「研修生あがりが」って言う人もいますけどね。 血筋がどうこういう世界じゃないんだから、いまさら言ったって始まらないじゃないですか。 それよか、細々とでもつづいているのは研修生のおかげなんだし。 研修生だっていろいろいるしね。あかんのもあるし。 それはもう、一個人としてできるかできないかの話だからね。 文楽はいろうと思って、いわゆるツテがなかったら研修生になるしかないんだし。 なったらなったで、いろいろ勉強したほうが得なわけでしょ。 やっぱ講師の人もかわいがってくれるからね、得しましたよ、ぼくは。 ◎弟子入りしてから ――2年の研修を終えて弟子いりするわけですが。どのような変化があるものなんでしょう。 師匠もね、研修生のときはそらやさしいですよ。でも弟子入りしたら、もう掌返したようですわ。 「こいつあほだっせ」言うんですよ(笑)。 だいたいね、なんでもやれそうな顔してすわってるわけですよ。研修生だから。 でいざとなって失敗すると大変なことになるから、先に、こいつなんもわかりませんねんて、言うてくれてるわけです。 ――研修生のときみたいに丁寧に教えてもらえないんですか? 教えてくれないですよ。 研修生は手取り足取りやったけどね。もうぜんぜん教えてくれない。 まあようするに、丁稚みたいなもんですわ。 ――研修時代に先代錦糸さんの演奏をきいて一目惚れ(ひと耳惚れ?)して弟子入りしたとうかがいましたが。先代のお弟子さんはほかにはいらしたんですか。 なかった。ぼくひとり。それまでもなし。 ぼくがはいったときに、以前ほかの師匠についてて、1度やめて、もどってきた人がいたんだけどね。ぼくと同時にはいったんだけど、その人はまたすぐにやめました。 ――錦糸さんは今後弟子はとりたいと思いますか? 思わないですね。育てるの、大変だと思うわ。 ――でも志望者がきたら? そりゃまあ、とりますよ。当然ね。 でも志望の動機がね、安易なことではいかんけど。 まあ人それぞれで条件がちがうからね。年齢的なこととか、向き不向きを見て、ケースバイケースで考えます。 研修所もね、ぼくらの時代とは多少質がかわってきているからね。どうかなと思うし。 いまみたいやったら、かえって行かんほうがいいんじゃないかな思うこともあるしね。 ――三味線の志望者は少ないですよね。 少ないですね。それはまあしゃあないでしょ。 文楽が好きだったら、まず人形か大夫に行きたがる。 三味線好きなんはよっぽど変わってますわ(笑)。それか文楽をものすごいよう知ってる。 性格的にもね、おれがおれがだと駄目ですしね。 たとえば野球でもね、みんなピッチャーやりたいでしょ。でもほんとに楽しいんはキャッチャーですよ。 そういう性格が必要なんですよ。 ――それで、ピッチャーがいいのはおれのリードがよかったからだとほくそえむんですか?(笑) そうね(笑)。そうは言わないけどね。 でもそれを認めてもらえなかったらね、それはつらい。 だいたいコンビ別れするのはそれが原因ですね。 三味線の方では「おれのおかげだ」とは言えないけど、それでちゃんと認めてくれればね。世間的にどうこうより、やっぱりその大夫さんから信頼されるのがいちばんですね。 大夫のほうで、なんでもかんでも「おれがおれが」て言われたら、そりゃ三味線弾きなんてあほみたいなもんでしょ。 まあだから、ぼくがいるからどうだってことではないんだけど、結果としてひとつの浄瑠璃がよかったって言われたら、それにぼくも関わっているわけだから、それでいいかなと思うんですよ。 そういう意味でね、ぼくは住大夫師匠とやらしてもらってほんとによかったと思う。 最初はあの方もずいぶん苦労されたと思いますよ。 ――いまはツーカーですか? 言われなくてもまあだいたいのことはわかります。 もちろんいまでも稽古には神経使いますけどね。 まあ最初から、あんまりあれこれ言われることはなかったんだけど。そういう人でね。自分で考えろって。 まあ、「なんや雰囲気がちがうな」とか、「燕三さんとちょっとちがうな」とか、「ちょっとせわしないな」とか、そういう言い方しかしないですよ。 それをどうすればいいかは、自分で考える。でもまた今度は、それが大変なんですよ。 稽古でお宅にうかがうでしょ。自分でもどうも気に入らないんですよ。師匠も何カ所か言ってくれるけど、やっぱり気に入らない。家帰ってまた悩んでね で、3日目くらいになってやっと、なんとなくすっといくようになる。 そうすると嬉しいですよ。 逆に師匠のほうでね、何も言ってはくれへんけど、弾きにくそうやなと推し量って、ある日ころっと変わるってこともありますしね。 ――そういう呼吸が読めるようになるまでどれくらいかかりました? 3年。最初は必死ですわ。 でもまあ、自分で考えられるってのは幸せなんですよ。 あんまりごちゃごちゃ言われてもわけわかんなくなるしね、自分で考えてこい言われる。 そしたら自然にあってくるようになる。 最初は無理にあわせにいってるから違和感がある。そのうちに勝手にばちがおちるようになってくる。それまではしょうがないんですよ。 ――3年っていったら、ちょうどそのころに襲名ですね。師匠のほうでも、このへんでいいかなって感じだったんでしょうか? それはね、やっぱり自分が元気なうちに名前を継がしてやりたい思ってくれたみたいです。 ――組みはじめてすぐは、いつクビになるかはらはらしてました? それはもう当然。だから一生懸命やるわけでしょ。 本来なら相三味線にしちゃえば楽なんですよ。 師匠は相三味線でもいいって言うてくれはった。 ただね、そうしたらぼくがほかの仕事をできなくなるからね。ほかの大夫を弾いたり、若手公演に出られなくなるから、だからやめとこうって言ってくれたんですよ。 でもぼくはね、そうじゃなくて、相三味線になったら甘えがでるからね。 べつにぼくの仕事とかそんなんはかまわないけど、こっちが及ばなかったときに迷惑がかかるから。 その点、ただのコンビやったらいつ別れてもかまわないわけでしょ。 そういうつもりでお願いしますと。 それはもうしょうがないですよ。ぼくはそういう立場なんだから。その分一生懸命やらんと。 その点、相三味線は楽ですよ。 ――相三味線に解消はないんですか? 解消いうたら離婚するのと同じですから、恥ずかしいことなんですよ。 最初に杯するから、それを返さないかん。 師弟間でもそうですよ。弟子入りするときに杯するから、破門されたらそれを返さないかん。 恥ずかしいことですわ。 ――そこまで古い世界、深い関係なんですね(へえ〜ボタンを連打)。 燕三師匠のときも杯しました。 ――燕三師匠のときは預かりですよね? そう。預かりだったけど、正式に仲人たてて(ここでもへえ〜ボタン連打)。 越路師匠のご夫妻がきて、きっちりしてくれはりました。 名前もね、本来ならむこう行ったら鶴澤を名のらなあかんのですが、それは仲人さんが、名前は野澤のままでおいといたってくれって、最初に言ってくれはって。 だったらそういうことも含んで、預かりましょうということになったんですよ。 |