文楽この一年 2004年


[1] 妹背山 :5月東京公演  :2004/12/02(Thu)

床も人形も、現在最高の配役でした。
う〜ん、もう一度見たい!

[2] 妹背山 :5月東京公演   :2004/12/03(Fri)

舞台も人形も美しいし、切なさがたまらないです。泣きました。
無茶を承知で言えば、妹山、背山の両方を住大夫師匠と錦糸さんのペアで聴きたいです。
せめてCDで実現してくれないものでしょうか?

[3] 壺坂 :10月東京素浄瑠璃の会  :2004/12/05(Sun)

大夫がそれなりに一生懸命なのはいいとして、三味線。
格下の大夫と組むならば、盛り上げてやろうとか、合わせてやろうとしか、引っぱってやろうとか、それなりの熱意・意欲があってもいいだろうに、自分の弾きたいようにただ淡々と勝手に弾いていた。
大夫と三味線は、一体となって浄瑠璃をつくるものではないのだろうか。
まるでバラバラ。
これが国宝の芸かと残念だった。

[4] 忠臣蔵 : 11月大阪公演 :2004/12/05(Sun)

記憶の新しいところで、忠臣蔵。長かったですねえ。
最後の焼香の場面は要らないと思います。なんだか付け足しみたいですし、九段目の圧巻でよい気分になったところで、帰路に着く、是が上演形式としては印象がよいのではないでしょうか。

七段目で思ったのは綱大夫さん、嶋大夫さんのやりとりはおおどかで廓の雰囲気を彷彿とさせる、掛け合いの妙味を感じましたが、他の太夫さんとなると全然様子が変わってしまう。
浄瑠璃らしくないと言ったら、言いすぎでしょうか。
芸能そのものの育ちが違うような気がしました。
是は三味線、人形についても世代格差と言うか、同じに感じます。
九段目も、前半後半ではなさる方が違うので人物像や物語そのものが全く違って感じられました。

[5] 忠臣蔵 :11月大阪公演  :2004/12/06(Mon)

通し公演。今年は何度かありましたが、体力的にしんどいとはいえ、忠臣蔵にかぎらず、やはりおもしろいです。
段によって重い・軽いがあったり、演者のキャラクターや技量の違いなどが堪能・確認できて、「いいとこどり」の「みどり公演」よりも楽しめました。
願わくば、あまり重要でない場などは、「お食事や多少の雑談OK」にして、くつろげればなぁ〜。
その意味では、焼香の場面は、まぁ、帰っても許されるでしょうね〜。

 
[6] 忠臣蔵 :11月大阪公演  :2004/12/06(Mon)

自分は経験が浅いので、約15年ぶりに文楽に接した知り合い談です。

長いのは仕方がないが、床も次々と代わり、皆が皆全力投球なので聞いている方は非常に疲れた。
昔は高い芸の力を軽みをもって演奏される方が多かったが。

今、昔のテープを聞き返しても、厳しさの中になんとも楽しさもあったが今回は皆が精一杯やっているという主張ばかりで楽しさを感じることができなかった。

それと、たとえば大夫でいうと、全員が山城少掾を目指す必要が本当にあるのだろうか。
もっとカラフルであってよいのではないだろうか。

[7] 引窓 :9月東京公演  :2004/12/06(Mon)

昨年素浄瑠璃の会を聞いたので楽しみに観に行きましたがやっぱりすごい。
聞き終わってから考えたら、人形の印象がまったく残ってなかったのは私が初心者だからでしょうか。

   
[8] 妹背山女庭訓 :5月東京公演  :2004/12/06(Mon)

初めての挑戦と言われる、住大夫の背山。
大判事の剛の中の柔をしみじみと感じた。
錦糸の三味線も、いつも聴かせてくれる繊細に対照的な太棹の強さを、前面に出して住大夫の語りを援けていた。
綱大夫の妹山の語りとかみ合っていて面白かった。
ただ、清二郎の三味線はいつも苦しそう。
妹山らしく聴こえなかった。

[9] 沼津 :5月大阪素浄瑠璃の会  :2004/12/07(Tue)

住大夫の十八番ということもあって、これぞ至芸。
人形に気を散らされることもなく、堪能した。

しかしながら、素浄瑠璃のたびに思うのは、住大夫と他の大夫との実力の差。
若手はもちろん、ベテランと呼ばれる人たちにして、住大夫には遠く及ばない。
住大夫の年齢を考えるに、文楽の将来のために他の大夫たちの一層の研鑽を願う。

  
[10] 菅原伝授手習鑑 :6月文楽鑑賞教室  :2004/12/08(Wed)

本公演では観られない配役ということもあり毎年楽しみにしている鑑賞教室ですが、人形、三味線、義太夫それぞれの解説が毎年毎年ほぼ同じ内容なのが気になります。
劇場にきている学生さん達が毎回違うからというのはわかりますが、もう少し変化があってもいいのでは?

演目も高校生がもう少し興味をもちそうなものを選んではどうでしょうか?
上演時間や教育的配慮の問題などはあるでしょうが、曽根崎心中や、忠臣蔵など文楽を全く知らない子供たちでも聞いたことのあるであろう演目を上演してみては?
(前方に座っている学生たちが全員眠っていて、後方にいる極少数の一般の文楽ファンのみが熱心にみているのは辛いです。)

[11] 文楽1年生の生意気感想:10月東京素瑠璃の会  :2004/12/11(Sat)

初心者ゆえの生意気な思い込みを記させて頂きます。

(1)人形遣い
玉男さんの人形は宙を浮いているようにみえず、足が本当に地面からはえているようでした。
宙を舞ってしまい、最近のチャン・イーモウのCG映画のような興ざめする折もありました。
年期の差かと思いましたが、NHK教育で初めて故・文昇さんを拝見してビックリ。
年期とあきらめてはいけない事実がありました。
でも長生きも芸のうちになってしまうのでしょうか。
住大夫さんの平成4年のCDと平成12年のCDを聞き比べ、その変化の違いに驚きました。

(2)三味線
寛治さんが弾きだしてまもなくチューニングし直したとたんに大夫がよく聞こえるようになった時がありました。
それ以来、チューニングするときの三味線弾きの方をじーっと見てしまいます。
錦糸さんはエリック・クラプトンのような分かりやすい明快な物語の進行者です。
掛け声もモテそうな雄キツネのような美声で住大夫さんとのコントラストが面白いです。
強いて言えば明快すぎる?ごめんなさい。
初心者ゆえのうがった感想。
わがままな客にもう少し想像(妄想?)する余白・スキを下さい。
初心者だから怖いもの知らずに書いております。

(3)大夫
住大夫さんは必ず手首を内側にひねり上体に力が入るのを防ぎ、往年の千代の富士のような磐石の重心を保つよう工夫されているように見えます。
他の大夫は特に手の位置にこだわっておられないようでした。
サッカーの中田選手は手の薬指の感覚が大事とか、寒い折、手袋でもするようです。

(4)豊かな日本語
床本をあらかじめ読んで鑑賞していますが、こんな良い表現があったのか!と思う事も楽しみになりました。
「蟹忠義」という言葉が面白かったです。
今年文楽に出会い楽しい年となりました。

    
[12] 4月大阪公演 :義経千本桜   :2004/12/13(Mon)

4月3日初日に、国立文楽劇場20周年特別記念公演を東京から見に行きました。
生まれて初めて初日に観劇し、大感激。
大夫、三味線、人形、技芸員全ての方からパワーが溢れているのを感じ、客席も沸き、舞台と客席が一体になり、素晴らしい公演だったと記憶しています。
大阪から去りがたく、翌日本物の千本桜を見に吉野まで足をのばし、遠回りして東京へ戻ったほどでした。
  
[13] 年間を通して。 :若手の活躍を。 :2004/12/19(Sun)

今年の舞台を思い返してみるに、人形さんのほうは、配役にもおっと思うようなお役のつく方もあり若手・中堅の抜擢・世代交代の準備かなと思えるような舞台もあったのですが、大夫・三味線さんのほうはあまり(そういう意味での)新鮮な驚きがありませんでした。

大夫・三味線さんが舞台の生命線だということもあり変な配役は付けられないんだろうということはわかりますが、こちらがええっ?これは聴きにいかなアカン、と思うような配役を期待したいです。

それと若手の大夫さん方、もっとアグレッシブになってください!
「もっと、もっと」というのが極一部の方を除いて感じられないです。

[14] 鑑賞教室×2 :お七   :2004/12/19(Sun)

若手が頑張ってる舞台は好きで、若手会なんかも大好きなんですけど、
いかんせん『お七』は見飽きました・・・。
このままでは『お七』が何だか“若手専用”になってしまうような・・・。
せっかく文楽を代表する演目なのです、ベテラン勢で、“感動できる”『お七』がぜひ観たいです。  
  
 
[15] 若手の奮起を.... :東京・素浄瑠璃の会   :2004/12/23(Thu)

東京・国立での素浄瑠璃の会、以前は若手も登場して「勉強の場」となっていた様に記憶しています。
ここ数年これがありませんね。

住師匠・錦糸さん・高木氏のお話は勉強にもなり、とても楽しく拝聴しています。が、、若手の勉強の場が一つでも増える事が、演者・観客双方ともに望ましいかと。
12月公演「菅原」を拝見(拝聴)して特にその思いを強く致しました。

[16] 妹背山 :5月東京公演  :2004/12/28(Tue)

はじめまして。
文楽の東京公演に通いはじめて早1年。
最初は義太夫もわけがわからず、「古典芸能ってこんな感じなのかな。難しいなぁ」と思っていました。
でも、なんだかわからないけれど、もう一度聞いてみたい。
見てみたい。という気持ちが湧いてきて、同じ演目を繰り返し見てみるようになりました。
(今から思うと、訳がわからずとも、床の方から伝わってきた迫力と意気込み、義太夫の心に引きこまれたのでしょう)

ストーリーがわかり、義太夫に違和感を感じなくなってきたら、文楽が加速度を増して楽しくなっていきました。
そして初めてみた妹背山女庭訓。
上手と下手の両方に床があり会場いっぱいに響き渡る左右の掛け合いのようなお三味線と語り。
そして見事な人形芝居。
感動して涙が止まりませんでした。
 
    
[17] 帯屋 :南座文楽  :2004/12/29(Wed)

文楽1年生ですが、錦糸さんのご要望により、よかった話はおいておきまして(いっぱいあるんですけど!)生意気にもそうでない方を。

個人的にあまり楽しめなかったという意味で「残念だ」と思った舞台は、南座公演の「帯屋」。
何だかあまり笑えなかった…。
痛々しいような。話的にもやや意地悪でブラックなものですが、そんな中にももう少し暖かみが欲しかった。
舞台全体に、です。
見ている方の気持ちが引き始めてしまうと、太夫が頑張るほど辛くなってしまって、居心地が悪かった舞台でした…。

この1年、全体を通して言えば、狂言の組み方にはちょっと不満。
特に通し狂言には一工夫を…。
10:30開始の『忠臣蔵』も長かったですし、休憩までが2時間を超した『千本桜』もちょっと疲れました。
通しにすれば物語全体を鑑賞することになります。
場面の取捨選択、タイムスケジュールの組み方そのものが作品の演出(ひいては観客の満足度)に関わることをもう少し意識されてもよいのでは…。
その効果を狙った上で、もっと大胆にカットがあっても良いように思います。
(東京では、上演順序の入れ替えをやってましたね)

[18] 生写朝顔話 宿屋の段 :7−8月大阪公演   :2005/01/30(Sun)

良かったものの第1位=「宿屋」
浄瑠璃の出の美しさに引きこまれ、最後まで浄瑠璃の海に浮かぶ心地でした。

 
[19] きぬたと大文字 :7−8月大阪公演  :2005/01/30(Sun)

???だったものの第1位=「きぬたと大文字」
演目自体のせいなのか、演者に因るのかは判りませんが、
舞台を眺めるうちに、これを観て楽しいものにするには
大変な創意工夫が必要かもしれない、と思ってしまいました。

[20] 引窓 :9月東京公演  :2005/01/31(Mon)

歌舞伎で観たことのある「引窓」でしたが、これは断然文楽で聴くものの印象を強くもちました。
中だるみしがちな内容も、住大夫師匠の語りと、三味線の緊張感で、そう、まるで三味線も語っているという感じで飽きずに聴きました。
三味線が語る、という印象が錦糸さんの三味線には感じられます。

ところで、演目には関係ないのですが、大阪の文楽劇場に行くのに近鉄、地下鉄、日本橋駅の7号出口階段、あれはどうにかならんのでしょうか。
高齢者の割合が多い、文楽劇場の観客内容だと思います。
私も歳をとりましたし、今回捻挫の足を引きずり引きずり行った劇場。
この7号出口が本当に忌忌しく思えました。
これからの劇場はもっと劇場周辺の環境を整えるべきと思います。
先ずは7号出口にエスカレーターを、そして、愉しい町並みを!

    
[21] 菅原伝授手習鑑 : 平成16年12月東京公演   :2005/02/04(Fri)

若手大夫の成長に期待し、この公演に臨んだが失望の帰路となった。
確かにするすると上手に語る若い大夫たち。
でも心に響いてこない。そう、心を感じないのだ。
だから若年の狂言師のように聞こえるのか、拙い声優の吹き替えのように聞こえるのか。
以下ざっと感じた場面を記す。

車曳。
松王、梅王ともボウボウと吼えるばかりでまるで今どきの素人劇団のようだ。
桜丸がこの喧騒の中では光って聴こえるが、単に声質にあった役だからか、とうがってしまうほどの二人の五月蝿さ。
また、時平にいたっては彼の目のくらまんばかりのカリスマ性、時めき感がみじんも聴こえてこない。
逆に卑しさ、器の小ささを感じてしまう。
大笑などこちらが失笑だ。
三味線も前月弾いた「判官切腹」とは気合が全く違う。
難なく弾いているように見えるが、いつもにもまして視線がうろうろと宙をさ迷い、気が全く入っていない様子。
辛かろうが、助ける気持ちも持って弾いていただきたい。

茶筅酒。
大夫はいつも目を閉じているわけではないが、たいがい床本に目を落としていて目をあげるのは手摺の進行を確認するときだけというのは真に寂しい限りだ。
また、白太夫を声色のみで語ってしまっているからであろう、まるで拙い声優が語る老人役の吹き替えを聞いているようで白太夫の喜びの裏の苦悩など細やかな表現が果たせていないばかりか彼の人間性が全く感じられない。

喧嘩。
梅王が苦しい。
確かに知的な男(梅王)の激高は難しいだろう。
しかし、やや高い声で憎憎しげに語るだけでは端敵のような軽薄でいやらしい感じを伴ってしまう。
これも声色で語りわけをしようとしているからそうなるのではないか。
また、滞りなく語り終えてはいるが、上滑りで聴き終わった後の感慨が全く残らない。
これは単なる敵同士の喧嘩ではない。
ふたりは兄弟なのだ。
昔は心も通じ合い、じゃれあっての相撲も取ったであろう。
それが今では憎しみあい、昔の美しい思い出すら亡きものにする取っ組み合い、何故ここまで心がすれ違ってしまったのか、といかに苦しかろう、胸がつぶれる思いだろう。
その無念さが全く描ききれていない。もっと情を!

 


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